お互い様

 金曜日だから、と私の携帯にメッセージが届いたのは昨日の晩のことだった。私は普通の会社員なので当然願ってもないのだけれど、芸能活動をしている彼にとっては週末なんて関係無い。彼の家にいく時は決まって遅くまで飲んでいるので、本当にいいのかと確認したが、土曜は休みだから構わないとのことだったので大人しく甘えることにした。

 普通にいつも通りオフィスに向かうだけなのに、いつも以上に緊張してしまう。変に気を使いすぎていても職場で色々言われてしまうので、容姿に少しの気合だけを入れて、いつもより多めの化粧品をポーチに詰めこんだ。彼が帰ってくるのは私よりも少し後になると聞いているので、それまでに化粧を直して……と段取りを脳内でつけながら退勤して駅へ向かう。今日は運よく上司が定時退社を持ちかけてくれたので、いつもより数本早い電車に乗ることができた。学生と一緒の電車になってしまったことによっていつもより密度の高い車内、反対方向の電車。一駅、また一駅と彼の家の方へ向かうにつれて動悸が激しくなる。いつもとは違う車窓に目をやりながら、彼に連絡を入れた。

「定時で上がれたから、先に待ってるね」

 会社の最寄りから、快速で三駅。彼の自宅の最寄駅で降りて駅前のスーパーに寄った。事前に冷蔵庫にお酒が無いと聞いていたので、適当に見繕ってレジへと向かう。できるだけ冷えているものをチョイスして、駅から彼の住むマンションまでの道をたどる。彼の職業上、表立って会うことはできない。だから、付き合ってからも彼と過ごす時間はもっぱら彼の家。幾度となく足を運んだ道なのに、何度歩いてもこの道には慣れない。

 エレベーターを登って、見慣れたその部屋のドアに合鍵を差し込む。いつきても綺麗に整理されている部屋に流石だと感心しながら、小声でお邪魔します、と呟いてから靴を脱ぐ。家主がいない部屋から当然返事があるわけでは無いのだけれど、ドアが閉じた瞬間ふわりと鼻腔をくすぐる彼の匂いが、自然と緊張感を煽った。手を洗って、冷蔵庫にお酒を直して、ポーチを広げて化粧を整える。彼が帰ってくると聞いている時間までにはしばらく時間があるので、読書でもして待っていようとバッグから一冊の文庫本を取り出して、栞を挟んでいたページを開いては、お決まりの席であるソファーを陣取って、活字に目を走らせていく。しかし、私が覚えているのはそこまでだった。金曜だったこともあって、疲れていたのだろう。私はそのまま眠りへと落ちていった。



「ただいま」

 目を覚ましたのは、彼が帰ってきた時の音だった。いつもなら鍵の音がしたら玄関へ向かうのだけれど、今日は眠ってしまっていて向かうことができなかったので、不思議に思ったのだろう。リビングを覗き込むように顔をだした彼が私の名前を呼ぶ。ごめんね、寝ちゃってた。そういうと彼は小さく笑って、疲れてたんでしょ?と言う。どこまでも優しい彼に嬉しさを覚えながらも、同時に申し訳なさを感じた。

「お酒買ってきておいたよ。ビールでよかった?」
「なんでもいいよ。ありがとう」

 冷蔵庫を開いて、ビールを二本抱えて戻ってきた彼に礼を言って、同時にプルタブを開けて乾杯する。金曜の夜に飲むビールというのは、どうしてこんなにも美味しいのだろう。明日の朝早起きせずともいいという背徳感と、一週間の重圧から解放されるという安心感。あげればキリはないが、金曜日のお酒というのは様々な要因が掛け合わさって、本当に美味しく感じる。喉越しの良いビールの最初の一口を堪能して、改めて顔を合わせて、どちらともなく「お疲れ様」と呟いた。

「そういやご飯作っとかなくていいって聞いてたけど、ほんとによかったの?」
「大丈夫。この間美味しいテイクアウト見つけたからさ、帰りに買ってきたんだよ」

 そういってレジ袋の中から彼が取り出したのは、フワッフワの卵が乗ったオムライスだった。そのほかにもちょっとしたおつまみになりそうな一品料理のはいったプラスチック容器がいくつかある。彼の事務所の近くにある洋食屋さんのものだそうで、この間たまたまマネージャーさんが買ってきてくれたものがとても美味しかったのだという。彼の舌を唸らせたオムライスは、ひとくち食べてみれば納得の美味しさだった。程よく溶けていく卵の甘みと舌触りが絶妙で、癖になる味。わざわざこうして買ってきてくれるのも頷ける一品だった。

「明日さ、なんか予定ある?」
「ううん、特にないよ。麻璃央くんは?」
「俺もないよ」

 オムライスを食べた後は、彼が買ってきてくれたおつまみとビールを片手にだらだらと話したり、テレビを見たりして過ごしていた。いつもの当たり障りのない休日前。いつもと違うのは、明日は二人とも休みだということ。休みが不定期な彼と定期的に休日出勤のある私では、中々休みが噛み合うことはない。幸い今は私の方が閑散時で仕事も少なく、きちんと週休二日の休みを貰えているからこそ起こりうる出来事。それが一体どういうことを意味するのかが理解できないほど私も彼も若くはない。実際こういう日は久しぶりで、だからこそ今日はいつもと髪の巻き方を変えてみたり、新しいリップを下ろしたり、さりげなく変化をつけた。朝からずっとそわそわしていたのだって、その先に起こりうるであろうことを理解していたからである。

 少しずつアルコールが回ってきたのか、お互いに顔が赤く染まり始めた頃。珍しく訪れた沈黙に様子を伺って彼の方に顔を向ければ、突如視界が狭くなる。急な出来事に体が一瞬硬直する。再度視界が開けた頃には、彼は悪戯に成功した少年のような無邪気な笑みを浮かべていた。そっと目を逸らせば、また楽しそうに笑う。

「何、今日かわいいじゃん。化粧変えた?」
「うん」
「髪型もいつもと違う」
「……うん。巻き方変えた」

 私の耳の横の髪を一房すくって、指にクルクルと巻きつける。流石に気付かれないだろうと思っていたリップの色までも全て見透かされてしまって、急に羞恥心が込み上げてきた。こんなの、まるで期待していましたと言っているようなもの。実際それはまごうことなく事実なのだけれど、改めて指摘されると恥ずかしい。彼は、髪を巻き付けて遊んでいた指でそっと私の輪郭をなぞって、そのまま逸らしていた顔に手を添える。先程の触れるようなキスとは打って変わって、唇ごと啄むような強引なキス。再度みた彼の目は、はっきりとこの先に紡ごうとしている言葉を物語っていた。

「ね、してもいい?」
「いい、けど……」
「ん?」

 渋る私を煽るようにもう一度キスをして、じっと私の返事を待つ。私が嫌だと言ったことは基本的に一切しない彼だけれど、今回ばかりは聞き入れてもらえないような気がする。何となく私の直感がそう告げている。それでもダメ元で彼に提案を持ちかけた。

「シャワー、浴びたい」

 口にした瞬間、彼からの答えは理解した。言わずもがな有無を言わせない目をしている。今日は汗をかいてしまっているからせめてシャワーを浴びたかったし、未だにできていない心の準備をどうにかしたかった。先延ばしにしても一緒なのは分かっているけれど、せめてひとつ、深呼吸くらいさせてほしい。久々に彼に包まれた体は高揚しきってしまっていて、落ち着く気配が全くないのだ。

「……どうしても今すぐって言ったら、怒る?」

 分かっている。私が怒ろうが、これはやめてくれない時の目だ。私が本気で嫌がっているわけではないのを分かっていて、わざと聞いている。顔に添えていた手は次第にうなじをなぞるように後ろへまわり、もう片方の手は腰に添えられる。私を抱き留めたままのしかかるように覆い被さってきては、彼はまた口付けを落とす。何度か軽いキスを繰り返して、私の下唇を彼の舌が小さく這った。答えを急かすような行為に息を乱しながら、何とか声を振り絞った。せめて、ベッドで。その私の返事に彼は及第点、とでも言いたげな顔を浮かべて、私をそのままベッドへと運んだ。

「今日さ、期待してた?」
「なんの、はなし……」
「それ言わせるの?」
「……そっちこそ。今日はいじわる」

 体を撫でるような手の動きは服の上から下へと変わり、ブラウスの下に着ていた肌着の裾を探すようにして私の横腹をまさぐる。体の輪郭をなぞるような手つきがこそばゆくて身を捩らせていれば、大人しくしていろと言わんばかりに手に腰が回り、動きを制限された。いつの間にか彼の手は肌着の内側にいて、肌越しに彼の長い骨張った指が感じられる。伺うように指を進めながら、彼はまたひとつキスを落とす。唇をなぞる舌の動きに沿って薄く口を開けば、触れるだけのキスは随分と深度を増した。

 されるがままでいるのが少しだけ不服で、ねじ込まれた彼の舌に吸い付くように自分からキスをする。彼は私の突然の動きに驚いていたようだったけれど、それも一瞬。私の行動を承諾と取ったのか、私の纏っていたブラウスと肌着を裾から捲り上げ、慣れた手つきで脱がせていく。気付けば私が上半身に纏っているものは下着のみになっていたけれど、今の私には不思議と先程のような不安はなかった。この先にある幸せを知っているから。いつもより少しだけ大胆になってしまうのは、たくさん飲んだお酒のせいにでもしておこうか。

「下着もいつもと違うじゃん。かわいい」
「も、いいから……早くして」

 体をまさぐる方とは逆の手で、私の前髪をぐしゃりと掻き分ける。朝、いつもより時間をかけてセットしたそれは、きっと今彼が撫でていることによって乱れてしまっているだろう。それでも、彼がかわいいと褒めてくれればそれで満足だった。その一瞬のためにいつもより早くに起きて、いつもよりたくさんの時間をかける。自己満足でしかないけれど、久しぶりに直接聞いた彼の言葉は心に響く。出会ってまだ数年にしかならないけれど、いつの間にか彼なしでは生きられないようになってしまっている。彼が生活の主軸にあって、彼の言葉に生かされている。
 
 彼の次の行動を促すように、彼の後頭部に腕を回して引き寄せた。私の拙いキスに呼応するようにして動く彼が愛おしくてたまらない。私の体の輪郭をなぞっていた手がだんだんと胸の方へと伸びて、その形を布の上から確かめるように揉む。布と掠れる僅かな刺激がもどかしくて身を捩らせていれば、彼は満足そうに笑ってそっとホックを外した。

「今日、どうしたの」
「なんにも、ないっ……」
「嘘。絶対なんかあったでしょ」

 締め付けのなくなった私の胸を楽しそうに弄りながら、彼は訝しげな視線をこちらへ向けてくる。しばらく緩やかな刺激を続けては、背を丸めてそこへと顔を埋めてちろりと舌を出した。それでも未だに決定的な刺激はくれない。刺激のほしい中心からは少し離れた、左胸の一点を執拗に舐める。いつもなら行うことのない行為を不思議に思って彼の方へ視線をやれば、上目遣いで私を見つめていた視線とかち合った。ここぞとばかりに整った顔立ちの使い方を分かった表情をするのはやめてほしい。視線に気付いたのか、彼は少しだけその目を柔らかく細めて笑う。あまりにも目に毒だ。

 思わず目を逸らしてしまった私を逃さないと言わんばかりに、あまり体に覚えのない刺激が走った。彼が執拗に舐めていた部分にチクリと痛みが迸って、たまらず目を顰める。恐る恐る視線を戻せば、そこは案の定はっきりと痣になってしまっていて。しかしそれでも、彼はそこに痕が在ることを確かめるように、またそっと唇を押し付けた。

「ごめん、痛くなかった?」

 彼の問いに私が肯定の意を込めて頷けば、彼はまた愛おしいものを見る目つきでその痕をなぞる。あまり見たことのないその表情に、びっくりするくらい鼓動が早鐘を打つのがはっきり分かった。分かりやすく動揺する私を他所に、彼は腕を私の肩に回して、そのままギュッと包み込む。体にかかる圧が鼓動を抑える一方で、より近くに彼の匂いと体温を感じて、更に鼓動が鳴った。

 私が抵抗しないのを見て、彼はそのまま黙って抱きしめる力を強めた。窒息死してしまいそうなほど苦しいはずなのに、どうしてこんなにも満たされているように感じるのだろうか。どちらからともなくまた視線を合わせて、キスをする。

 この行為にはなんの生産性もなくて、男女が快楽に溺れるためには必要のないもの。それでも、私たちには最も必要なもの。これは、私たちが私たちに溺れるために必要な行為なのだ。会えない期間を埋めるように、それでも熱が冷めていないことを確かめるために。私たちはいつも、こうしていっときの夢で全てを埋める。だからこそ、私の期待も、彼の所有欲も、ここでは全てが正義だ。それでも彼はいつも私のことを一番に考えて、私が拒絶すると分かっていることは絶対にしない。

「ほんとにごめん。嫌だったら全部、俺のせいにして逃げていいから」

 彼はそう前置きして、今までで一番優しいキスをする。反射で閉じた私の瞼にそっと彼の手のひらが触れて、重くなった瞼は開けないまま視界が暗くなる。途端、やっと待っていた刺激の波が私を襲った。思わず出てしまった甲高い声に、彼が不敵に笑うのが分かる。その笑みの真相を悟った私の体が思わず震えるのを、彼は見逃さない。追い立てるように痣から胸の中心に向かって指を這わせて、その中心を思いっきり抓る。急な快楽に、頭が追いつかない。おかしくなる。過剰に私を追いやる指先とは相反して、いつだって彼は優しいのだ。

「今日は、朝まで寝かせたくない」

 煽ったのは私なのに、ね。